印象派を代表するルノワールの代表作品
ルノワールは印象派を代表する人物ですが、彼の技法は晩年にかけてさらなる進化をしていたことはあまり知られていません。ルノワール複製画は人気がありますが、その秘密には彼が少女をテーマにした美しい絵画が多いことに理由があるでしょう。
日本でも人気の高い印象派の画家たち。その代表的な存在と言える「ルノワール」はフランスの画家です。美術館で展覧会が開かれれば多くの人を集めて、真作であれば億を超える金額でオークションにかけられます。家に飾るためのルノワール複製画も人気です。特に日本人気が高い画家であり、今回はその生涯や技法、代表作、人気の複製画などを解説します。
ルノワールの生涯
ルノワールは本名を「ピエール・オーギュスト・ルノワール」と言います。ルノワールは1841年にフランスの片田舎リモージュという街に生まれました。家は仕立て屋を営んでおり、7人兄弟の6人目で貧しい家庭環境だったそうです。そのためルノワールが3歳(4歳という情報も)のときに一家は職を求めてパリに移住します。印象派の画家たちは上流階級の人が多いですが、ルノワールは苦労を重ねた経歴を歩むことになります。一家が移住した場所はルーヴル美術館の近くです。今ではハイソなエリアとなった地区ですが、この当時は貧困階級が住むエリアだったと言います。
ルノワールの芸術との出会いは意外なことに音楽です。9歳の頃、聖歌隊に入って声楽を学びました。非常にいい声をしていてオペラ座の誘いもありましたが、これは辞退して磁器の職人の見習いとしてキャリアをスタートします。その後いくつかの仕事を転々としますが、20歳のときに画家になる決心をします。シャルル・グレールという画塾に入り、ここでモネやシスレーといった印象派の画家たちと運命的な出会いを果たしました。
グレールの画塾は保守的な指導方針だったと言いますが、ルノワールはそこで絵を自由に描くことの楽しさを感じ始めます。ルーヴル美術館が近くにあって本物を見る機会にも恵まれ、23歳でサロンに入選しました。さらなる転機となったのは、それから10年後の33歳のとき。モネやピサロといった仲間たちと共に第一回「印象派展」を開催します。当時としてはあまりにも斬新な展覧会だったため、批評家たちからは酷評されますが、展覧会が回を重ねるうちにファンを増やしていきました。
徐々に名声が高まっていきますが、同時に印象派に限界も感じて独自の技法へと進化していき、ついには国に作品を買い上げられるようになりました。晩年はリウマチに悩まされ、南フランスで療養地にて病気で亡くなりました。
ルノワールが得意とした技法
ルノワールを始めとする印象派のテーマ設定や技法の画期性は、従来の絵画と比べると分かりやすくなりますから対置しながら説明しましょう。印象派と対立関係にあったのは「古典派」と呼ばれる美術一派です。古典派は当時フランスで最大の権威を持っていた派閥で、アカデミーが担っていました。彼らが理想としたのは古代ギリシア。その復興(ルネッサンス)であるため、新古典主義とも呼ばれます。ナポレオンが山を登る絵画(ダヴィッド作)はその代表例です。こののち、古典派に反発してロマン派や写実主義が出てきますが、印象派はこの影響が強いです。
古典派は歴史や神話を主題にした作品群と説明できますが、印象派はテーマが特にありません。強いて言えば社会や人間、自然を「そのまま描くこと」を主題にしました。技法に関しては古典派が細部を書き込んで筆の跡を消すようにしたのに対し、印象派は筆跡を残してキャンバスに凸凹感を残しました。絵の具を混ぜずにそのまま描いたので鮮烈な印象も与えます。モネに代表されるように、色彩や輪郭が曖昧な絵画も代表例です。
これが印象派のテーマ設定や技法の特徴ですが、ルノワールはさらにその先へと進みました。ルノワールはイタリア旅行を経て、ルネッサンスの巨匠ラファエロに感銘を受けます。第7回印象派展に参加したルノワールは明確な輪郭線を取り入れて、古典主義の影響が伺えるようになります。古典派の巨匠ドミニク・アングルにも影響を受けて、さらに古典派の影響が見られるようになり、ここからあたたかい色調の人物画を多く残しています。ちょうど、その頃にルノワールの絵は国にも認められるようになりましたから、ルノワールは印象派の作家ですが古典派の影響も大きく受けて、二つの派閥のハイブリッドな作品と言われたり「ポスト印象派」とも評されることがあります。
ルノワールの代表作品まとめ
ルノワールはその生涯で数々の傑作を生みました。「ラ・グルヌイエール」は、ルノワールとモネが同じテーマ設定で描いた初期の代表作です。セーヌ川沿いにあるボート乗り場とそれに集まる人間たちを瑞々しく描いています。水面に反射する太陽の光の表現に印象派の特徴がよく出ています。この表現になるためには4色から5色の絵の具を混ぜずにそのまま描く必要がありますが、筆のタッチで混ぜて濁らせないようにひとつひとつ慎重にかき分けられている、という「色彩分割(筆触分割)」の手法が確立しました。この色彩分割は印象派の基本的な技法です。
1876年発表の「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」は舞踏会の様子をテーマにしたもの。実は絵画のモデルになったのはルノワールの友人たちで、舞台となったダンスホールも彼の住まいの近くにあったそうです。曖昧な輪郭線、光の表現、複雑な画面構成で描かれた傑作です。
1882年発表の「舟遊びをする人々の昼食」は、ルノワールの新機軸となった第7回印象派展で発表された作品となります。この頃にはラファエロを始めとするルネッサンスの影響を受けた時期で、批評家たちからも絶賛を受けました。印象派の特徴である光と影の明滅、ルネッサンスの肉体的な瑞々しさを両方取り入れたこちらも傑作の逸品です。
そして円熟期と言われる1890年代以降の作品は、裸婦画に代表されます。1918年発表の「浴女たち」は曖昧な輪郭線で描かれている作品ですが、ここで生命の瑞々しさを鮮烈に描きました。豊かな色彩で女性の柔らかい体を表現しています。絵画は背景知識や宗教への理解など「説明」や「解釈」が求められる作品が多いですが、ルノワールは説明できる絵画は芸術ではなく、見た人を感動させるものが真の芸術だと語っているように、鑑賞者の「印象」こそが大切だとこの頃には辿り着いていたと言えるでしょう。
ルノワールの作品を再現した複製画の魅力
ルノワールは日本人気が非常に高い画家です。印象派自体が人気が高い傾向がありますが、その印象派のなかでもセザンヌと並んで一二の人気を誇ると言っても過言ではありません。展覧会を開けば多くの来場者を集めて、ルノワール複製画も高い売上だと言いますが、その魅力の秘密を解説しましょう。彼の作品の特徴は女性をモデルにした作品が多いことです。特に少女を取り上げたものが多いことが日本人気の理由の一つかもしれません。
日本はアニメや漫画、ゲームといったコンテンツ大国ですが、キャラクターに対する感性や人気は非常に高いです。ルノワールには美少女の肖像画があり、代表的なのは「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢」、通称「イレーヌ嬢」と呼ばれる作品です。ベルギーの貴族ダンヴェール伯爵の長女、イレーヌをモデルにしています。曖昧な輪郭線で描かれた背景から浮き上がるように、白く美しい少女が佇んでいる、という日本人なら一度は見たことのある作品となります。2018年に国立新美術館で開催されたルノワール展はこのイレーヌ嬢をポスターに採用して、宣伝文句には「絵画史上、最強の美少女」となっていました。アイドル文化やキャラクター文化の理解がある日本では受けやすい画家だと言えるでしょう。
ちなみに、このイレーヌ嬢は国際的にはほとんど無名の絵画だと言うことは日本ではあまり知られていません。英語圏を始めとする海外では、ルノワールの代表作とはみなされておらず「ラ・グルヌイエール」や「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」のほうが知名度があります。ただ、日本のルノワール複製画で一番人気なのはイレーヌ嬢であり、この事実はルノワール作品のどこに日本人が魅力を見出しているかを表しているでしょう。
苦労の画家「ルノワール」は印象派からスタートし、それを乗り越えるような偉大な作品を残しました。彼の画風はいろいろと変遷を遂げますが、女性をモデルにした絵画にたどり着き、「イレーヌ嬢」のような日本人気の高い作品を残しています。